「Summer Pockets」 ショートストーリー ~夏の眩しさの中で~【イナリ 編】

<小さな体の、大きな記憶>


「じゃあね~、イナリ。今夜もありがと」
「ポン!」
 夜明け前、今夜分のお役目を終えた蒼ちゃんが、ハイリさんと山道を下りていく。
 ボクは、2人の背中が見えなくなるまで見送ります。
 キツネのボクが、こうやって人間の言葉を理解できるようになってどのくらいでしょうか。
 よく覚えていません。
 そういえば“ポン!”と、鳴くボクを、初めて出会う人間は本当にキツネかと疑います。
 鳴き声からか、真っ先にタヌキを連想するようですね。
 そんな人間に尋ねたいです。
 ポンと鳴くタヌキを見たことがありますか?
 まったく、失礼な話です。
 それともうひとつ、これもハッキリさせておきましょう。
 ボクは「メス」です。
 エッチな本とか、女の子のパンツに釣られたこともありますが、乙女です。
 同族オスよりも人間の女の子が好きなだけです。
「ポキュ……」
 いけません、ボクの眠気も限界のようです。
 ひとまず眠ることとしましょう。
「クゥ~……クゥ~……」
 自慢の尻尾を枕代わりに丸まって眠るのが、最近のトレンドです。
 ボクは山の奥にある巣穴で眠っています。
 外敵から身を守るために、安全な場所で眠るのは野生の本能。
 そういう意味では、蒼ちゃんは、本能を捨てています。
 村の中とは言え、無防備に眠りすぎです。
 もっとも、ボクが側にいるので危険は限りなくゼロですが。
 そういえば、蒼ちゃんはボクにとってなんでしょうか。
 トモダチ? オネエチャン? ゴシュジンサマ?
 あ……、ゴシュジンサマという響きにゾクっとしました。
 ひとまずゴシュジンサマとしましょう。
「ポ……キュ……」
 蒼ちゃんの前で芸をして褒められる夢を見ました。
 とても満ち足りた夢です。
 でも、そろそろ目覚ましが鳴る頃───……

 カコン、カコン、カコン、カコン

「ポキュ……」
 軽快な音に、尻尾が自然と揺れます。
 だから、否応なしに頭が揺れて目が覚めました。
「ポン~」
 巣穴から出ると、耳と背中と尻尾を目一杯伸ばします。
 山の瑞々しくて濃い緑の空気を、胸いっぱいに吸い込んで。
「ボキュッフ!」
 噎せました。
 軽快な目覚ましに誘われるように、ボクは茂みの中を進みます。
 視界が開けると、ボロボロの小屋があります。
 壁の隙間から中に入ると、人間が大きなしゃもじのようなもので、小さな玉を叩いています。
 確か、蒼ちゃんの愉快な下僕の1人です。
「ポン」
「むっ? おまえか、どうやらまた特訓に付き合いに来たのか」
「ポンポーン」
「ふっ……いいだろう、胸を貸してやる。行くぞ!」
 この人間のオス、偉そうにしていますが何様でしょうか。
「奥義! 舞卦処撥斗!」
「ポーーーン!」
 凄いスピードで玉がこっちに飛んでくるけど、尻尾の一凪であっさりと払い返す。
「がっはああああああああぁっ!!!」
 打ち返した玉が、額に当たって吹っ飛ぶ。
 いつものことです。
「な……何故だ……! どうしてキツネごときに勝てない! 天善! お前はこの程度か!」
 地面に拳を叩きつけながら、人間のオスが叫んでいます。
「イナリ! もう一本だ! 次は本気で行く!」
 何度も聞いている台詞だけど、このオスの本気は何段階あるんでしょうか。
「てんぜーーーーん! ファイッ! ファイッ! ファイッ!!」
「ポーーーーン!」
 ただ、何をやっても結果は変わらなくて。
「うっ……ひっく、ぐううううっ……何故っ……勝てんっ……!!」
 泣きながら地面の上で大の字になっています。
 誰も居ないところでは、臆面もなく泣くようです。
 弱者に多くの言葉を投げるのは、プライドを傷つけます。
「ポン」
 なので精進しろよ、と一言だけ声を掛けて去ります。
 ここまで含めて、よくある、朝の一幕です。

※ ※ ※ ※ ※

 朝ご飯前の適度な運動は、健康の秘訣。
 ボクは明るい山道をのんびりと歩きながら下ります。
 人間が住む場所までやってきました。
 昔は、人間に近づいてはいけないと、野生の本能がいっていました。
 もう顔も忘れた母親からもそう聞かされていました。
 だけど、いつからかボクは人間の住む場所に通うようになりました。
 人間が怖いと思わなくなったからです。
 蒼ちゃんと一緒にいるせいでしょうか?
 人間の言葉が分かるようになったからでしょうか?
 分かっているのは、この島の人はみんないい人ばかりです。
 何より、ご飯に困ることがありません。
 というわけで、突撃島の朝ご飯の時間です。
 昨日は、食堂と呼ばれる場所でクリームパンを貰いました。
 一昨日は、蒼ちゃんがお仕事をしている場所で、かき氷をもらいました。
 (あれはお腹が膨らみません)
 さて、今朝はどこに行きましょうか。
「ポン?」
 良い匂いがしました。
 油の乗った甘い香り。
 その匂いだけを頼りに、道を歩きます。
 ふと、前を見ると見覚えのある人間のオスがいました。
 頭に固そうなものをかぶってて、慌てているようです。
「ちょ、ちょっと出かけてきまーす!」
 鉄の子馬のようなものに乗って、すごいスピードで去って行きました。
「遊んできまーす!」
 続いて小さな人間の女の子も飛び出してきました。
「くわばらくわばら」
 怯えた顔で出てきた家の方を何度も振り返りながら、小走りで去っていきました。
 良い匂いはあの家から漂っているのですが、何があるのでしょうか。
「ポン?」
 ボクは首を傾げながら、その家に近づきます。
 美味しい何かがそこにあるのだから。
「2人とも、朝ご飯も食べないで遊びに出かけるなんて、せっかちなのね」
 家の前に出てきたのは、鏡子さんという人間。
 何度か見かけたことがあります。
 甘い匂いは、この人の手から漂ってきています。
「ポンポン」
「あら? あなたは空門の蒼ちゃんとよく一緒にいるキツネさん?」
「ポン」
「丁度良かったわ。キツネなら油揚げ、好きだよね」
「ポーン」
「ふふ、じゃあ上がって。羽依里君もうみちゃんも食べずに遊びに行っちゃったから、たくさん余ってるの」
 どうやら、ボクは朝ご飯にありつけたようです。
 野生の勘の勝利です。
 昔、良い匂いがするので近づいたら金網に閉じ込められたことがありましたが、ボクは学びました。
 地に落ちているエサを漁る必要なんてないのだと。
 ボクのこの容姿で媚びれば、ご飯は簡単に手に入ります!
「ポン」
 自慢ではありませんが、愛玩動物としてはかなりの地位にいると自負しています。
 そこらの犬や猫に負けません。
 悔しければ人語の一つでも理解してみるがいいのです。
 音と雰囲気で反応するのではなく、言葉として理解してみるがいいのです。
「あらあら、なにか増長してる気がするわね?」
「ポンポン」
 尻尾を振って誤魔化す。
 この人間は、少し勘がいいようです。
「はい、イナリ寿司よ。どうぞ」





 お皿にのせられた、金色に輝く朝ご飯。
 それは人間よりも嗅覚の鋭いボクの鼻の中を、甘露とも言える芳醇な香りで埋め尽くしました。
 匂いを嗅ぐだけで、口の中に甘さが広がっていきます。
 こんなに素晴らしいイナリ寿司を見たのは初めてです。
 なのに……
 どうしてでしょうか。
 体が動きません。
 ご飯を前にして、食欲は促進しているのに、心が体を縛っています。
 ボクの、野生の本能が危険だと言っているようです。
「あら? 前は喜んで食べていたのに、どうしたの?」
「ポン!?」
 何ですかその記憶は?! ボクは覚えていません。
 もしやこの体が動かないのは本能ではなく、経験からくるものなのでしょうか?
 記憶を失うほどの何かで……、だけど体だけはそれを覚えていて。
「ポ……ポン……」
 食べては駄目です。きっと、食べれば、また食べたことを忘れてしまいます。
「もぐもぐ、うん、今日のは少し甘めね」
 どうしてこの人間は食べる事が出来るんでしょうか。
「あ、そうだ。沢山作ったから、空門さんの家にお裾分けしましょうか」
「ポン!」
 ボクはイナリ寿司にかぶりつきました。
 甘い。
 とても甘くて……体の中も、頭も蕩けそうです。
 比喩ではなく、です。
 気を緩めれば、簡単に意識が飛んでしまいます。
「気に入って貰えたみたいね、嬉しいわ」
 ……どうしてこの人間のメスは、このイナリ寿司を平気な顔で食べられていたんでしょうか。
 毒蛇が自分の毒で死なないのと同じ事ですか?
「ポ……ポン!」
 お皿にあるイナリ寿司を食べきる。
 だけど、お裾分けと言っていたから、もっとあるはず。
 ボクはお皿をテシテシと叩く。
「おかわりなの?」
「ポンポーン」
 ここで、全て食べきります。
 そうしないと、蒼ちゃんの身に危険が及びます。
 それだけは、させません。絶対に。
 蒼ちゃんは、ボクが守ります!

※ ※ ※ ※ ※

「っポン!?」
 目を覚ますとボクは浜辺にいた。
 焼けた砂浜の熱と、潮の香りのする風。
 ボクはどうしてここに居るんでしょうか?
 どうやって来たのか、全く覚えていません。
 ただ、お腹がいっぱいで、何かをやり遂げたという満足感に満ちています。
 まあ大切な事なら、いずれ思い出すでしょう。
 忘れたと言うことは、その程度のことです。
「はぁはぁ……」
「ポン?」
 浜辺の入り口に人間のオスがいました。
 あれは、蒼ちゃんの愉快な下僕のもう1人の方です。
 よく脱皮しています。
 今も脱皮していますが……浜辺の入り口で何をしているのでしょうか。
「ポン」
「ん? ああ、蒼んとこのイナリか、わりぃが今お前に構ってられねぇんだ」
 オスは周囲に神経を張り巡らしているようです。
 何を警戒しているというのでしょうか。
「……ごくり」
 唾を飲み込んで、浜辺から一歩足を出しました。
 その瞬間、体を浜辺側に倒して、転がります。
 チュイン!とレーザーのような水が、オスの居た場所を通り過ぎて、砂浜に拳(人間の)ほどの大きさの穴をあけました。
 野生の目を持つボクの目はごまかせません。
 遠くにある鉄の塔の上から、確かな殺気を感じました。
 たしか、蒼ちゃんのトモダチの、ノミキと呼ばれている女の子です。
 凄い勢いで水を出す道具を使って、人間のオスをハンティングをしているようです。
『そこの露出狂! 服を脱いで良いのは海水浴場だけだ。外に出たくば服を着ろ!』
「だから服を風で飛ばされちまったんだっていってんだろぉ!」
『知らん。予備を持っておけ』
「無茶言うなよ! じゃあお前が持ってきてくれよ! 服!」
『断る。どうせお前は私が鉄塔から離れたら、その隙に浜辺から出ていくつもりだろう』
「ちっ……バレてやがる」
 蒼ちゃんの下僕は、かなり姑息な男のようです。
「……クソ、ただ家に帰りたいだけなのにっ、早く帰らないといけないのに……」
 いえ、きちんと理由はあるようですね。
「ワールド不思議発見の再放送が……! 裸族の回が見れねえ!!」
 どうでも良い理由でした。
「……ん……?」
「ポン?」
 目が合いました。
「イナリ……お前ってキツネだったよな?」
「ポン」
「……人類がまず体を隠すのに使ったのは植物の葉だ。でもあれは耐久力が低いし、なにより卑猥だ」
 下僕が何か難しいことを言いながら近づいてきます。
「原始より現代に至るまで受け継がれている衣服がある。だから、それを手に入れれば俺はここから出られる」
「ポ……ポン……?」
 目が危険でした。ボクの身の危険も感じています。
「キツネの毛皮ぁーー! それよぉこぉせぇぇぇぇーー!」
「ポ、ポ---ン! ポーーーーン!!」
 慌てて逃げようとしましたが、気迫に飲まれて、あと足場が砂だったので踏ん張りがきかず転けてしまいます。
 ガシッと、武骨なオスの手がボクの体を掴みました。
「イナリ、ゲットだ!」
「ポーーン! ポンポーーン!」
「からの……インストーーーリング!」
 どこから取り出したのか、下僕のオスは紐でボクを体を自分の胸にくくりつけました。
 かなりしっかりと、ぎっちりと。
「ポ……ポキュ……」
 これはどういう辱めでしょうか。
 なぜボクがこんなオスに密着させられ、しかも衣服呼ばわりされなければいけないのでしょう。
「へへ、Hな本に載っていた縛り方が役に立ったぜ」
 一体どういう縛られ方をしているのですか???
 もしかしてボクは乙女として自害した方が良い目に遭っているのでは??
 下僕が得意げに、鉄塔の方に指を向けます。
「ノミキ! これで文句ねえだろ! 上等な毛皮を着てるぜ!」
 こいつ、アホです。
『くっ、認める』
 あっちもアホです!
 下僕は意気揚々と浜辺を出ました。
 まさかとは思いますが、このまま人間が沢山居る居住区まで歩くつもりでしょうか。
 噂に聞く公開処刑とはこのことでしょうか。
 絶望に目を閉じます。
 た……助けて……蒼ちゃん……。
「こらーーー! 何やってんのよーーー!」
 聞き覚えのある声に目を開けると、同時に体が軽くなりました。
 ボクを捕縛していた紐がほどかれて、下僕から解放されたようです。
 そして、固いオスの肉の壁と打って変わって、柔らかな包まれるような肉の塊に抱き締められます。
「イナリ、大丈夫!?」
「ポンーー! ポーーン!」
 蒼ちゃんがボクを助けてくれました!
『そこの露出狂、海水浴場以外の場所で服を脱ぐことは禁止されている、死ね』
「そ、そんな! ぎゃああああああーーーー!」
 下僕がノミキに水の銃で撃たれる。
「ぎゃっ! ひっ! ちょ、も、もど……るっ! ぎゃっ! ぶ……」
 動かなくなるまで打たれ続けました。
 当然の報いです。
「まったく、ノミキが教えてくれなかったら酷いことになるとこだったわね」
 蒼ちゃんがボクを抱き締めたまま、優しく頭を撫でてくれる。
「怖かったわね、イナリ。もうこのバカに近づいちゃ駄目よ」
「ポン……ポン~」
 ボクは素直に蒼ちゃんの胸に甘えました。
 柔らかくて幸せです。
「さてと、ついでだし一緒にバイトに行こっか、イナリ」
「ポン」

※ ※ ※ ※ ※

「ありがとうございましたー」
 蒼ちゃんはこの島の駄菓子屋というところでバイトをしています。
 看板娘、というそうです
 バイトというのは、労働と引き換えに食べ物を貰うことらしいですね。
 オツケモノと呼ばれている、野菜とかを酸っぱくさせた物を持って帰っています。
「さて、と……」
 蒼ちゃんが少しそわそわしています。
 窓ガラスに自分の顔を映して、前髪を指でいじります。
 スカートの裾を気にしたり、上着の胸元を少し下げたりしています。
 お店の奥にいって、深呼吸を何度もしています。
 原因は知っています。
「くーださーいな」
 ハイリと呼ばれている人間のオスです。
 この人間がくると、蒼ちゃんは……ぶっちゃけて発情しています。
 野生のボクは見逃しません。
「あんた、また来たの? 毎日暇してんのねえ」
「そう言うなよ、もうちょっと愛想良く接客してくれ」
「別にあんたが来たところで嬉しいわけじゃないし」
 嘘です。蒼ちゃんは今、めちゃくちゃ喜んでいます。
「俺はうれしいんだけどな」
「え……!? あ、あたしに会えることがうれしいの??」
 今、間違いなく発情しました。
「いや、こういうみんなが集まれる場所ってのができたことが」
「あ……あ……そ、そうよねー! こういう場所っていつまでも記憶に残って良い思い出になるわよねー」
 蒼ちゃんがいつものように、自爆じみた問答を繰り返しています。
 本当に見慣れた光景です。
 だけど、この光景を見ることがとても嬉しく感じます。
 それはきっと蒼ちゃんが、幸せそうだからでしょうか。
 ボクでは満たせないものを、ハイリさんが満たしてくれているのは分かっています。
 短い時間ですが、彼を近くで見ていてそう感じます。
 眠る蒼ちゃんの側にいてくれたり、心配してくれたり。
 彼がいる間は、ボクは安心して居られます。
 それは蒼ちゃんも同じなんだと思います。
 だから──……
「ふわあぁぁ~……」
「ぽきゃぁ~……」
 2人で大きな口を開けて、あくびをしてしまいます。
「蒼……女の子なんだから、せめてあくびの時は口を手で隠せよ。あと、イナリのあくびは斬新すぎてちょっと、その、困る」
「う~ん……店番、ちょっとお願いして良い」
「分かった、どうにも出来なさそうなのがきたら起こすからな」
「うん……」
 蒼ちゃんが眠ったのを見て、ボクも目を閉じる。
「イナリも寝たのか? って、そこ日なたじゃないか」
 眠ったボクの体が、ハイリさんに持ち上げられる。
 日陰に運んでくれるようですね。殊勝な心がけです。
 しかし、この宙に浮き、ゆらゆらと風の波に揺られるような感覚。
 昔を思い出します。

 そう、あれは3つくらい前の夏でしょうか。
 まだ人間の言葉を理解出来なかった頃の事です。
 夜になると、灯籠を持って暗い山道を歩く人間がいました。
 その夏は、大人の人間ではなく、子供のメスが灯籠を持って歩いていました。
 馴れない足取りで、怯えながら歩いています。
 ボクたち野生の動物は、その人間に近づきません。
 なぜなら、その人間はとても危険な物を引き連れているからです。
 山の中に時々飛んでいる光る蝶々。
 人間には見えない方が多いようですが、ボク達野生の動物には見えています。
 そしてそれらに触れてはいけないことも、ボクたち山に住む動物は本能的に知っています。
 なので、触れることはありません。
 でもその子供のメスは、愚かにも蝶々に触れていました。
 理解しがたい行動ですが、興味が湧きました。
 なぜなら、蝶々に触ってもしばらく動かなくなるだけで、すぐにまた歩き出すからです。
 もしかして、あの蝶々は本能が告げてくるほど危険な物ではないのでしょうか?
 好奇心も湧きました。
 なので僕は蝶々を探しました。
 そして見つけた光る蝶々は、とても小さくて光り方も弱々しかった。
 ボクは思いました。
 勝てる──と。
 意味も無く勝てると、思ってしまいました。
 愚かな野生の本能です。
「ポーーーーン!」
 結果、光る蝶々に触れたボクは、頭の中をよく分からない意識に埋め尽くされてしまいました……
 とてつもない情報量。キツネのボクでは理解できない知識に記憶に感情に……
 触れてはいけない理由を身をもって知りました。
 ボクはこのまま死ぬんだと、これもまた本能的に感じました。
 だけど……
 薄れる意識の中で、不思議な白い花畑を見みました。
 この山にこんな場所があったなんて知らなかったです。
 あの世というものでしょうか? たくさんの光る蝶々が飛んでいました。
 ふわふわと、冷たくない水の中で漂うような感覚。
 明滅する視界の中で、人間の声だけがずっと聞こえています。
(────の元気がないと、わたしも元気になれない)
 誰のことでしょうか……
(──ゃんが笑えないと、わたしも笑えな──)
 ボクももう笑えなくなるのでしょうか……
(夜の山は────ど……、がんばる)
 がんばると……いいことがあるのでしょうか?
(わたしは、────のお姉ちゃんだから)
 ボクは……お姉ちゃん……? 誰の?
(──ちゃん、待ってて)
 誰を……待たせているのでしょうか……
 ずっと誰かのことを心配している声。
 ボクはその感情に包まれ続けました。
 抱かれ続けました。
 頭の中に絶えず注ぎ込まれ続け、溢れ零れ続けます。
 意識が完全に途切れる、その瞬間まで。





「……大丈夫? ねえ、生きてる、の?」
 声が聞こえました。人間の女の子の声です。
 どうしてか、たまらなく懐かしいと感じる声です。
 目を開けると、灯籠を持ったあの人間の女の子が、不安そうにボクを見ています。
 白いお花畑はどこにもありません。
 ボクは山道の真ん中で倒れていたようです。
「ポ……ポン……?」
「良かった~、動かないから心配したわよ」
 シンパイシタワヨ──心配したわよ……?
 この時、ボクは人間の「言葉」を聞いていました。
 それまでなんとなくの感情を含んだ音として聞こえていた人間の声ですが、「意味」が分かります。
 どうしてでしょうか。
 ボクは人間の言葉が分かるようになっていました。
 頭の中は、何かで一杯になってパンクして、でもそのほとんどが零れてしまいましたが、人間と繋がる知性だけは残ったようです。
「あれ? んー……あんた、キツネよね?」
「ポン?」
「……何でかしら、懐かしいって思っちゃうんだけど……?」
 蒼ちゃんは首を傾げる。
「ポン……」
 すぐにボクも首を傾げる。
 どうして、この人間の女の子を「蒼ちゃん」だと思ったんだろう?
 首を傾げたまま、「蒼ちゃん」を見上げる。
 胸の中に、不思議な感情が渦巻きました。
 嬉しくて、悲しくて、喜びと、申し訳なさと、愛しさと。
 そして、使命感──
 「蒼ちゃん」の為に、あの光る蝶々を探さなきゃいけないと、強く感じていました。
 ボクは一体どうしてしまったんでしょうか。
「とりあえず、お役目続けないと」
 蒼ちゃんが暗い山道を見つめています。
「ポン、ポン」
 ボクは蒼ちゃんの前に移動して、尻尾を振る。
「え? なに?」
「ポン」
 何度も振り返りながら、蒼ちゃんが進むだろう山道を先に歩く。
「ついてこいって言ってるの?」
「ポン!」
 野生のボクは、光る蝶々がいる場所が分かります。
 本能的に危険な気配がする場所に、飛んでいるのですから。
 だから、蒼ちゃんを導く事も、避けさせることも思いのままです。
 あっさりと光る蝶々を見つけて、蒼ちゃんに知らせます。
「あっ! 七影蝶! すごいじゃない、キツネ!」
 蒼ちゃんに褒められました。
 とても……とても嬉しい気持ちになりました。

「ポキュ……」
 風の匂いが変わって、目が覚めました。
 どうやら、もう夕方になっているようです。
 ずいぶんと眠っていたみたいですね。
 懐かしい頃の夢を見ました。
 後ろ足で立ち、耳と背中と尻尾を目一杯伸ばします。
 さて、蒼ちゃんは……
「すぅ……すぅ……」
 ハイリさんの膝の上でまだ眠っていました。
 そしてハイリさんも、どうやら眠っているようです。
 2人とも、夜のお役目で疲れているのでしょう。
 仕方ありません、ボクが店番をしておきます。
 また、夜になると蒼ちゃんもハイリさんも無理をしてしまうのですから。
 夏の太陽は、頑張り屋さんです。
 沈んでも、まだ空を明るくしようとします。
 冬は暗くなり始めると、あっという間に真っ暗になるのに。
 少しでも、蒼ちゃんが休めるようにと、気をつかってくれているんですね。
 ボクはそんな太陽に、前足を掲げました。
 だけど、やっぱりどうしても夜はやってきます。
 夜の山は、決して静かではありません。
 沢山の虫が鳴いています。
 賑やかだけど、気持ちが落ち着きます。
 そんな夜虫たちの合唱を聴きながら、ボクは1人山に繋がる道の前で座っていました。
「あれ? 蒼はまだ来てないのか」
「ポン」
 今夜はハイリさんが先に来ました。
「あいつ、居眠りしてて来ないとかないよな」
 それは大丈夫です。
 キツネの嗅覚は、人間の数百万倍。
 ボクはすでに、ここに向かって近づいてくる蒼ちゃんの匂いを嗅ぎ取っています。
 これは走っていますね。
 あ、立ち止まりました。一生懸命息を整えているようです。
 少ししてから、蒼ちゃんが姿を現しました。
「待たせたかしら? ちょっと遅れちゃったわね」
「そう思うなら、走って来るなりして申し訳なさをアピールしてくれ」
「そんなことしたら巫女装束が乱れるでしょ。男なら「今来たとこだよ」くらい言いなさいよね」
「それは走ってきた女の子に対してかける言葉だろ」
 蒼ちゃんは素直じゃありません。
 遅れては来たものの、早くハイリさんに逢いたくて走っていました。
 でも、これはボクだけが知っていて良い、蒼ちゃんの可愛い部分です。
「それより、今夜も頑張るわよ」
「ああ、気をつけろよ」
「気をつけるのはあんたよ。絶対に七影蝶に触っちゃだめだからね」
「だから気をつけろよ」
「え? その返しはどういう意味? まさか……七影蝶には触らないけどあたしに触るって事!?」
「いや、隙あらば七影蝶に触ってみようかと」
「だからそっちは触んなーーーー! あたしに触れーーーーー!」
「えっ、いいの!?」
「ど……どうしても触りたくなったら……まあ、ちょっとくらいなら」
 相変わらずの蒼ちゃんです。
 だけどこのやりとりで、蒼ちゃんは元気になります。
 だから、必要なことなんだと思います。
「さ、行こうぜ」
「絶対に七影蝶に触っちゃ駄目だからね」
「はいはい」
「返事軽い!」
 2人が山道を登り始めます。
 改めて見ると、不思議な光景です。
 蒼ちゃんが誰かと一緒に並んで歩く姿を見る日が来るとは思っていませんでした。
 この夏の夜のお役目。
 蒼ちゃんが無事に家に帰ることが出来るように、お供をする。
 それがボクの使命だと思っていました。
 そのことに誇りも持っていました。
 光る蝶々に蒼ちゃんが触れる数も、調整してきました。
 それがボクにできる……、キツネであることの限界です。
 残念ですが、そのくらいしか出来ません。
 でも、この夏は仲間が増えました。
 この人間なら、きっと蒼ちゃんを支えてくれることでしょう。
 ボクに出来ないことを、してくれます。
 それは少しボクとしては残念だし、寂しいことです。
 だけど、蒼ちゃんのことを思うなら、喜ぶことです。
 なにより──
 蒼ちゃんの笑顔が増えました。
 蒼ちゃんが、可愛くなりました。
 蒼ちゃんの独り言が増えました。
 蒼ちゃんが、時々恥ずかしいことを言ってきます。
 蒼ちゃんが、惚気てきます。
 ボクにとっては、それはやっぱり嬉しいことです。
「イナリ? どうしたの?」
「早く先導してくれよ、おまえが引っ張ってくれなきゃ俺たちも困るんだから」
「ポン!」
 ボクは蒼ちゃんが大好きです。