プリマドール・アンコール
02-1 きら星と焼き菓子(1)

 水曜日。
 それはボクたちにとって特別な意味を持つ。もの言わぬフィラメント電球。ひっそりと時が止まった室内。黒猫のシャノだけが尻尾をゆらりと振りつつやってきて、いつもの場所に餌が無いことに気付いて、二階へと引き返していく。

 『定休日』

 扉に提げられた掛け看板。
 今日は週に一度、羽根を伸ばせる休日なのだ。人形である彼女たちにも保守保全の日は必要だろう。

宇佐美「……こんなものかな」

 ボクはと言えば、薄暗い厨房に立ってボウルを抱えていた。こねこねと木べらで中身をかき混ぜる。黄金色の生地を持ち上げると、ぽてりと柔らかく垂れ落ちた。後は絞り袋で天板に絞り出していけばいい。

灰桜「シャノー、ご飯ですよー」

 ぱたぱたと二階から降りてくる音。
 静かな店内に、灰桜の声が響く。

宇佐美「あれ、さっき二階に戻っていったけど」
灰桜「みゅ? おかしいですね」
宇佐美「屋上で、ひなたぼっこでもしてるんじゃないかな」
灰桜「では、そのうち戻ってきますね」


 かがみ込んで、シャノの昼食を準備している。今日のメニューは魚のあらを煮付けた猫まんまだ。

灰桜「ところで、そちらはうささんのお食事ですか?」
宇佐美「これは、料理の勉強ってところかな……とと、これじゃ多すぎるかな」

 灰桜は気になるようで、厨房をのぞき込んでくる。
 生地を天板に慎重に絞り出して、形を整えていく。

宇佐美「黒猫亭に来てから、ドリンクや生菓子はそれなりに作れるようになったけど……焼き菓子はまだ苦手だからさ。練習しているんだ」
灰桜「焼き菓子……素敵です!」
宇佐美「シュー生地だよ。うまくいったら一緒に食べようよ」
灰桜「はいっ!」

 霧吹きで生地をしっとりさせると、オーブンにセットした。
 灰桜は期待に瞳を輝かせながら、じっと側でそんな様子を眺めていた。

月下「煙突からきな臭い匂いがするであります」

 ひょこりと顔を覗かせたのは、月下だ。
 胸元にはシャノを抱いている。二人で遊んでいたのかもしれない。

宇佐美「きな臭いって……オーブンの余熱がうまく行ってないのかな」
月下「今日は定休日でありますが」
灰桜「シューの練習をしているんだそうです!」
宇佐美「これが結構難しくてね。レシピ帳頼りだよ」

 前任者の残してくれたレシピ帳をパラパラと眺める。
 ひとつひとつのメニューについて事細かに指示が書いてあり、これが無ければボクの仕事はとうてい成り立たない。

宇佐美「でも、いつまでも頼ってはいられないからさ」

 そう、厨房係として一本立ちするためには。

月下「戻ってくるそうでありますが」
宇佐美「え?」
月下「厨房係」
灰桜「みゅ?」
月下「そのレシピ帳を作った前任者であります」
宇佐美「え……ちょ、ちょっと待って」
月下「なにか」
宇佐美「このレシピ帳作った人、辞めちゃったわけじゃないの?」
月下「保有オーナーが変わった……という話は聞いておりません」
宇佐美「ちょっとお休みしていただけ?」
月下「別の任務というところでしょうか」
宇佐美「じゃあ……戻ってきたらボクはどうなるの?」
月下「それは……」

 しばらく考え込む月下。
 やがていつもの、涼しげな瞳を向けた。

月下「クビでありましょうか」
宇佐美「嫌だぁあーーーーーーーーーー!」
灰桜「うささん、辞めちゃ嫌ですーーーー!」
宇佐美「言われなくても辞めないよ! せっかく見つけた働き口だし! ようやく慣れてきたんだし! それにそれに……!」
月下「落ち着くであります」
宇佐美「ボクなりに頑張っているんだよ。見てなよ、このお菓子だってバッチリ焼き上げて、腕前を証明してみせるさ」
月下「決めるのはオーナーであります」
鴉羽「ちょっと、なにやってるの?」

 すこし慌てた様子で、鴉羽さんが厨房をのぞき込んでいる。

鴉羽「なんだか焦げ臭いわよ!?」
宇佐美「えっ……ああっ!?」

 オーブンの隙間から、ぷすぷすと煙が漏れていた。
 慌てて中を確かめるが、時既に遅し。
 滑らかな黄金色を放っていたシュー生地は、無残にも炭化していた。


宇佐美「やってしまった……」

 温度調節を失敗していたのかもしれない。
 月下がきな臭いといったところで気付くべきだった。

鴉羽「これはもう、食べられそうにないわね」
灰桜「うみゅみゅ、おいひくないですっ」
宇佐美「言ってるそばから摘まんじゃダメだって!」
鴉羽「ほら、ぺっぺしなさい。シャノも食べないの!」
宇佐美「あぁ、料理の腕前を見せようと思ったのに……」
月下「やはりクビでありましょうか」
宇佐美「嫌だーーーー!」

*       *       *

宇佐美「はぁ……」

 長い影を追いながらとぼとぼと歩く。
 お日様が溶けそうな顔で、山の手城の後ろに沈んでいく。街灯がなんとも頼りなく明滅していた。

宇佐美「なんとも奥が深いものだなぁ……」

 あれからいくつか洋菓子を試し焼きして見たが、なんとも上手くいかない。
 それならと二区まで足を伸ばして、流行の洋菓子屋を覗いて参考にしてみようとしたのだが、そこはなんともきらびやかな世界で、硝子ケースに並べられたお菓子はまるで宝石のような艶っぽさで、要するに激しい敗北感を覚えて、こうして石畳の上をふらふら歩いているのだ。

 急かすような音を鳴らして、路面電車がやってくる。ちょうど帰宅どき、小さな車体に人々が飲み込まれていく。なんとなくまだ帰る気持ちにはなれなかった。運賃だけ払って気持ちを落ち込ませただけという事実を認めたくない気持ちもあったし、なにより先程からずっとお腹が空いている。気落ちしているのはそのせいもあるだろう。

 近くの洋食屋を覗いてみるが、なんとなく敷居が高そうで、いまの懐具合でははばかられた。どうするでもなく、なんとも優柔不断に街を彷徨い歩いていると……。

宇佐美(……いい匂いだ)

 なんとも懐かしい出汁の匂いが鼻先をくすぐった。外観は酒屋さんのようだが、どうして?と思うと何のことは無い。店内の一画で酒肴を提供しているのだ。いわゆる立ち飲み屋で、よく見ると酒屋としての入り口と、飲み屋としての入り口が分けられているのが分かる。店内はぎゅうぎゅうで、よほど繁盛しているらしい。


 ちょうどカウンターを拭いていたお姉さんと目が合った。夜空を思わせる着物をたすき掛けにしている。肩までの短い髪がさらりと揺れる。頭の上には三角巾。背中には鈍色の煙突が伸びている。

 ……煙突?


執筆:丘野塔也 挿絵:まろやか CV:中島由貴(箒星)
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